辛抱が命の職業
丸高農園は戦前の昭和12(1937)年に温州蜜柑や伊予柑の苗木を植えることから始まりました。しかし第二次世界大戦に突入し、月日が過ぎるごとに畑には馬鈴薯や麦を植える面積が増え、残った苗木にも十分な肥料を与えることもできずただ見守る辛抱の年が続きました。終戦後に初めて150貫匁(0.56t)程の蜜柑を収穫することができたものの、味も色も悪いもので柑橘栽培の難しさに直面しました。柑橘栽培は苗木を植えて収穫を待つだけではなく、施肥による土壌づくり、剪定による木づくり、病虫害対策や摘果により初めて良果を収穫することができる時間を要する農作物です。諦めず辛抱、研究を重ねること10数年、収穫量、質ともに向上し市場の最上級品と同等な蜜柑を生産できるようになりました。
畑づくりは石垣づくりから
伊豆半島は火山群の地質からなり起伏に富む急傾斜地の多い地形です。 増産のため新たに柑橘畑を開墾する平坦地には限りがあり、傾斜地を利用する必要がありました。傾斜地に畑を造成するためには段々畑を造らなくてはならず、先人達の膨大な労力により、現在当農園には南向き斜面に1haほどの段々畑が広がっています。 段々畑を成す石垣は、昼夜の温度差が大きい気候でも地温を一定に保ち、通気性もよく柑橘栽培に重要な水分管理にも適しており、通常の傾斜地よりも木々に日が良く当たるため、良質な柑橘生産の基となっています。
松崎町を柑橘の名産地に
昭和30年代になると全国各地で蜜柑の栽培が盛んになり、愛媛県を始めとする瀬戸内地域、和歌山県、九州各地の産地は現在も柑橘類の代表的な産地となっています。松崎町も他の産地に劣ることのない気候的立地条件があるものの、山畑が多く土地が狭いことからなかなか耕作されない問題がありました。そこで創業から築いてきた成果や改良された品質からこの地域が柑橘の名産地になることを確信し、蜜柑栽培の奨励事業を外部団体である※丸高愛郷報徳会により、各集落単位で蜜柑苗木の無償頒布ならびに圃場整備費用の補助や貸付を実施しました。その後、蜜柑の他にもポンカンやニューサマーオレンジ、甘夏蜜柑の栽培がされるようになり、現在ではさらに多品種の柑橘が町内の柑橘農家により生産されています。
※丸高愛郷報徳会(現 一財丸高愛郷報徳基金)
愛郷精神のもとに農林業の振興や優位な人材育成並びに社会資本の整備を目標に昭和20年6月に設立され、現在も設立時の精神を維持しつつ時代の要請に従い伊豆地域の経済活動と社会活動の活性化に貢献する事業を継続しています。